兵庫県の斎藤知事を巡るパワハラ疑惑を調査する県議会調査特別委員会(百条委員会)。その委員だった県議の2人が、2月20日、委員の職を辞任した。26日には、2人の所属する兵庫維新の会が彼らに除名・離党勧告の処分を下した。
2人は2024年11月の県知事選の期間中、「NHKから国民を守る党」党首で、自身も県知事選に立候補した立花孝志氏に、百条委員会が非公開と定めていた音声情報や、知事のパワハラ疑惑を同委員会で追及していた県議のT氏を「印象操作の黒幕」などと記した文書を提供。
立花氏は2人から得た情報をSNSで公開・拡散し、出直し選挙に臨んだ斎藤元彦氏を応援した。結果、斎藤氏には強力な追い風が生じ知事に再選。一方、パワハラ疑惑を追及していたT氏は斎藤知事再選翌日に県議を辞し、今年1月に亡くなった。自殺と見られている。
百条委員会委員を辞めた維新の2人の県議のひとりは、2月23日の記者会見で、悪びれずにこんな発言をしていた。
「私は今でも立花氏がデマを言っていたとは認識しておりません」
(記者質問:あなたにとって立花氏はどういう存在か?)
「メディアの一端を担っている方、という認識です」
× × ×
私たちは、かつて報道機関のことを「マスコミ」と呼び、ここ30年ほどは「メディア」と呼んできた。情報を広く、多くの人、すなわち「mass=大衆」に効率的に届ける媒体を「マスメディア」と呼び、新聞、テレビ、雑誌がその代表だった。
だが、インターネットの登場で、ウェブサイト、ブログなど、既存のマスメディアを経由せず、文字通りだれもが情報を発信できる環境になり、もっぱらインターネットで情報を発信する主体を「ネットメディア」、情報の消費者が発信者にもなり得るプラットフォームを「ソーシャルメディア」などと呼ぶようになってきた。
加えて、2010年代半ば以降は、マーケティングやコミュニケーション界隈ではペソ(PESO)モデルなる考え方が現れ、Paidメディア(=広告)、Earnedメディア(=報道機関による報道)、Sharedメディア(=SNSを通じたバズ)、Ownedメディア(=企業のオフィシャルサイトを通じた企業自身の発信)の4メディアを役割に応じて使いこなすべき、との風潮が盛り上がっている。
つまり、「なんとかメディア」という単語が世の中に広がり、その結果、使っている私たち自身、メディアとはなにか、報道とはなにかについて厳密に考えなくなり、ミソもクソも一緒に扱うことが半ば習慣になってしまっている気がする。これは危険である。
かつて新聞、テレビ、雑誌などの報道機関(=ジャーナリズムの担い手である組織)は、ニュースや言論を「作り」、かつ自身の手で読者・視聴者(=情報の消費者)に「届け」てきた。〈製造+流通〉一体だった。
ところがネットの登場で、〈流通〉の部分はITプラットフォーマーが提供するようになり、報道機関(=ジャーナリズムの担い手組織)は、デジタルプラットフォームの場に、コンテンツを提供するだけの存在になり下がった。〈製造〉と〈流通=プラットフォーム〉の分離である。
しかも、このデジタルプラットフォーム上には、かつての情報消費者が(今ではインフルエンサーやYouTuberになって)製造した「消費者製造コンテンツ」も、「報道機関製造コンテンツ」も、まったく同じように乗っていて、マッチングのアルゴリズムに従って、そのコンテンツを欲しいであろう消費者に上手に届けられる。
届けられかたの量(バズ)で比べれば、インフルエンサーのコンテンツの方が報道機関のそれを優越することは頻繁にあろう。だが、質の点ではどうなのか。
「デジタルメディア」とか「ソーシャルメディア」とか「ニュースメディア」とか、メディアという単語を使って今の情報環境を説明してしまうと、私たちの認知/認識のなかで、製造、流通、情報の受信者・発信者、報道、ジャーナリズム、インフルエンサー、エンタメ…などの輪郭がぼやけ、「バズったか否か」すべてを量で測りがちになる。質の観点は置き去りにされてしまう。
選挙=得票数という量で測る勝負に勝つため、兵庫維新の県議2人は「バズるか否か」を基準に、「選挙民が知るべき情報」との一心から、事実か否か未確認状態の情報を選んで、議会のルールを破ってまで、“メディアの一端を担う”と勘違いされたインフルエンサーに、その拡散を託した。このプロセスに、投票行動、情報それ自体、報道、それぞれが追及すべき質への視点はまったくない。
新聞、テレビ、雑誌など、一部から「オールドメディア」と呼ばれるプロフェッショナルなジャーナリズムの担い手を、仮に「ジャーナル・パブリシャー」と呼ぶとすると、ジャーナル・パブリシャーが最優先で追及すべきは、フェイクが横行する今の情報環境下でのファクトチェックであり、事実の報道と事実に基づく分析・提言である。
「バズるか否か」はマーケッターの行動原理、また広告を収益の柱とするプラットフォーマーの論理であり、「対象を動かすこと」を優先するあまり事実を軽視するのは運動家である。
H.H.
